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なつぞら天陽くんのモチーフとなった農民の画家・神田日勝を 妻・ミサ子さんが語る
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公開日:2022年3月4日

なつぞら天陽くんのモチーフとなった農民の画家・神田日勝を 妻・ミサ子さんが語る

目次

十勝開墾の歴史から140年

明治政府が開拓史を置いて、蝦夷地を北海道と改めたのは1869(明治2)年。その後、和人たちによる北海道開拓は、さまざまな形で進められました。

そのひとつに、屯田兵による開拓があります。明治政府が北海道の開拓と北方警備のため、1875年に札幌市の琴似地区に初めて移住配備を行い、以降約29年間で37箇所に約4万人が入植したといわれています。

十勝で開拓が始まったのは、1883年。静岡県大沢村(現・松崎町)で結成された民間会社の「晩成社」による集団移住が最初で、今年が入植140年にあたります。

先人たちの苦労を礎に、十勝地方は日本有数の農業地帯に発展。2021年の十勝の食料自給率は、カロリーベースで1339%。日本国内の代表的な食料基地のひとつとなっています。

写真提供:帯広百年記念館

昭和の屯田兵「拓北農兵隊」

第二次世界大戦の敗北直前である1945(昭和20)年3月の東京大空襲で、約10万人以上が死亡。多くの人が被災しました。このほかにも、東京を始めとした首都圏の都市が、連日のように空襲を受けました。

このため、「北海道集団帰農」という政策のもと、首都圏の戦争罹災者が「拓北農兵隊」と名付けられ、北海道へと送り込まれました。しかし、農業に適した土地はすでに田畑になっていて、拓北農兵隊に与えられた土地の多くは、農地には向かないものでしたから、開拓はとても過酷な作業だったようです。

なつぞら(NHK朝ドラ)山田天陽くんのモデル

2019年4月から9月にNHKで放送された連続テレビ小説100作目の「なつぞら」をご覧になった方も多いと思います。

同作は女優の広瀬すずさん演じる戦争孤児のヒロイン「なつ」が父の戦友一家に引き取られ、十勝でたくましく成長する物語です。作中に登場するなつの幼馴染みで農業の傍ら絵を描く「山田天陽」を若手人気俳優の吉沢亮さんが好演して人気を博しました。

実は、この山田天陽のモデルになったのが、1945年8月に拓北農兵隊として、十勝北西部の鹿追町に家族とともに8歳で入植した農民の画家「神田日勝」でした。

移住。戦火を逃れて東京から十勝へ

神田日勝は1937年12月8日に現在の東京都練馬区で5人兄弟の次男として生まれました。戦時下の日本でしたので、日本勝利の願いを込めて「日勝」と名付けられたといわれています。彼は3歳の頃から手当たり次第に絵を書き始め、「絵さえ描いていればおやつも忘れるほど」だったそうです。

日勝少年が小学2年生だった1945年8月7日、神田一家は戦火を逃れて拓北農兵隊に加わり東京を後にして、14日に入植地の鹿追町に到着します。そして翌15日に終戦を迎えました。

神田日勝とミサ子さんの出会い

日勝は1970年8月25日に32歳という若さで逝去しましたが、妻のミサ子さんは現在も鹿追町内で元気に暮らしています。

鹿追町生まれのミサ子さんと日勝との出会いは、日勝が鹿追町の中学を卒業して、農村青年団に入った頃でした。

「私の従兄弟が日勝の姉と結婚したので、彼の名前だけは知っていました。当時は多くの青年が流行のリーゼントに白いワイシャツと革靴というおしゃれをしていましたが、日勝だけは(石原)慎太郎刈りにランニングシャツ、そして下駄を履いていました」とミサ子さん。

日勝より3歳年下のミサ子さんが中学2年のとき、妹、弟、姪が続けて亡くなってしまい「自分は何のために生きているのか」と生きる意味を見いだせなくなっていました。まわりには、ミサ子さんの切なる思いに耳を傾けてくれるひともいなく「暗い気持ちで日々を過ごしていたのですが、日勝だけが私の話を聞いてくれて、会話をしているだけで楽しかった」と当時を振り返ります。

日勝の妻、ミサ子さん

農民画家の苦悩「絵を描くことは排泄行為」

ミサ子さんと日勝が結婚した頃、神田家の営農は、東京育ちで農業経験のない両親に代わって、日勝が中心に行っていました。神田家の土地は、草や笹の根が多く、カシワの切り株も残っていたそうです。

農民でもある画家・神田日勝は日々の農作業に追われ、絵を描く時間をどうやって捻出していたのでしょう。

「公募展の前は絵が優先。種の撒きつけが1日や2日くらい遅くなってもなんとかなりますが、絵は期日までに出品しないといけませんから。そういう時は昼休みに家に戻って、そのまま畑には戻らずに絵を書き続けていました」


ミサ子さんが8年半の結婚生活の中でこんな質問をしたことがあったそうです。

「あなたにとって、絵を描くってどんな気持ち?」

すると日勝は「僕にとって絵を描くということは、排泄行為と同じかな。我慢できなくなったら漏らしてしまうだろう」

日勝、ミサ子さん、息子(撮影=関口哲也、1967年)
田舎暮らしがきらいだった少年時代。故郷・十勝に見つけた、ここだけの自然体験。~ジュエリーアイスの名付け親 浦島久さん

牛や馬、生活を描いたリアリズム

日勝の多くの作品では、牛や馬、畑からの収穫物など、自分の生活に欠くことができないものをテーマに選ぶことで、リアリズムを追求していきました。農耕馬はその代表的な例で『馬』や『開拓の馬』の胴体には「胴引き」と呼ばれる働く馬の証が描かれています。

実はミサ子さんが日勝にモデルを依頼されたことがあります。その作品こそが代表作『室内風景』です。日勝はズボンのシワを描くため、壁の前にミサ子さんを座らせ、熱心にデッサンをしました。

馬 1957年
開拓の馬 1966年
室内風景 1970年

水に浮かぶ一滴の油のようなひと

神田日勝が32歳の若さで亡くなってから50年以上が経った今、改めてミサ子さんが思う日勝像をお聞きしました。

「私が言うのもなんですが、すごい人だったと思います。他人に左右されず、誰になんと言われようと、自分を信じることが一番大事であると彼から教わりました。日勝は水に浮かぶ一滴の油のような人。周りと一緒に流れはしても、決して溶けて交わることがない、そんな感じの人でした」

1993年6月、鹿追町に神田日勝記念館(現・神田日勝記念美術館)が開館。
絶筆『馬』を始め、油彩、素描、資料を収蔵、展示しています。

馬(絶筆・未完)1970年
神田日勝記念美術館
神田日勝記念美術館

画像提供:神田日勝記念美術館、北海道立近代美術館




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