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十勝の酪農の歴史にも名を残す実業家 渋沢栄一 ~ 十勝開墾合資会社の設立
酪農を知る
公開日:2022年1月24日

十勝の酪農の歴史にも名を残す実業家 渋沢栄一 ~ 十勝開墾合資会社の設立

写真提供:清水町教育委員会 社会教育課

2024年に発行される新1万円札にその肖像が刻まれる「近代日本経済の父」渋沢栄一。
渋沢が世に創設した会社は500を超えると言われ、その功績と人生が先日最終回を迎えたNHK大河ドラマの主人公として描かれました。

近代日本を代表する実業家が、北海道十勝地方に、畑作や酪農業を手掛ける会社を設立していたことはあまり知られてはいません。その舞台となった十勝地方の清水町を訪ねました。

※トップ画像(銅像)は清水町にはありません

目次

入植と会社設立

清水町は十勝地方の中心・帯広市から車で約40分。十勝平野の西部に位置し、豊かな大地が育む畑作と酪農が盛んな町です。

渋沢栄一ほか10名は、1898(明治31)年に「十勝開墾合資会社」を設立し、現在の清水町熊牛(くまうし)地区に農場を開設しました。そのきっかけとなったのは、国の方針として上がった「蝦夷地開拓」であり、北海道庁から命を受けたものとされ、約1年間の現地調査を経て、入植を決断したと言われています。

同年、石川県や福井県出身者ら26戸99人が、太平洋に面した大津(現・豊頃町)から上陸し、十勝川を遡って、熊牛の地にたどり着きました。

現在も残る1919(大正8)年建築の2階建ての木造牛舎は、十勝開墾合資会社(後の十勝開墾株式会社)が札幌農学校(現在の北海道大学)に設計を依頼し、本州から駆けつけた宮大工など腕のいい職人が数名で手掛けたとされ、二階からワラくずなどが階下に落ちないよう、雇い実接ぎ(やといざねはぎ)という仕組みが施され、総工費1万円(現在の4千万円ほど)を掛け、約二年がかりで建設されました。

土台となる木材には当時、十勝に群生していたカシワを、約10メートルの1本梁にはタモの木を使用しています。牛舎は、現在もそのままの形を残し、今も尚、渋谷農場の畜舎として使用されています。

会社の設立当初は、資材の運搬のための物流の不便さや北海道の冬の寒さなどで運営はままならなかったようですが、1907年の鉄道開通によって、ようやく文字通り、道が開かれたとされています。

渋沢と十勝平野

会社が軌道に乗るまでの約10年間、渋沢がその苦境の中においても、開墾を諦めなかったのは、彼の海外に向けた視点や情報が深く影響しているようです。

渋沢は著書のなかで「従来接した景色のうちで、私が最も其の雄大なるに打たれたのは、北海道の石狩と十勝の境界にある狩勝峠から見下ろした十勝平野の風景である。実に雄大なもので、コセコセしたところが無く、一寸見た丈(だ)けでは米国あたりの大陸にある風景の如く思はれ日本の景色だとは思へぬほどだ」と綴っています。

渋沢は、十勝平野の景色に魅入られ、いつか実践したいと考えていた「アメリカ式大規模農法」を、ここで試してみたい、との思いに駆られ、新しいチャレンジをこの大地から感じ取ったのではないでしょうか。

さらに渋沢は、視察で海外を訪問した際に飲んだコーヒーがお気に入りで、そこに添えられた白い砂糖に感動し、どうにか日本で生産することができないかと思案していました。南洋の糖業事情を調査した渋沢は、内外産砂糖を精製販売する精糖業起業を図り、まず大阪の松本重太郎らと共に1895年に日本精糖を設立しました。

その後、熊牛の地に於いてもそれを実践すべく、札幌農学校に協力を依頼し、現在も広く十勝で栽培されている甜菜(ビートまたは砂糖大根ともよばれています)の作つけを十勝開墾合資会社に指示。地域にもその生産を広く根付かせる原動力となっていきます。

寒さにも強い甜菜の栽培は、十勝全域へと広がり、ついに砂糖の製造会社である明治製糖の立ち上げへと進み、現在も清水町やその近隣の芽室町などで工場を稼働する日本甜菜製糖株式会社へと受け継がれていったのです。

渋沢の足跡

渋沢が熊牛の地に残したものはほかにもあり、大正の年号と十勝の地名から一文字を取った「大勝神社」もそのひとつで、敷地や工費が十勝開墾合資会社から投じられ、本殿や拝殿が造営され、札幌神社(現在の北海道神宮)の分神を奉戴し祀られています。

また、渋沢の雅号を山号とした「青淵山寿光寺(せいえんざんじゅこうじ)は、渋沢がその建設を指示し、建立され、地域のまつりなどが行われる集いの場となりました。寺の入口には渋沢直筆の扁額が掲げられています。

熊牛地区から開墾が進められたと言われる清水町は今年開町120年を迎えます。熊牛地区開拓100年(1996(平成8)年)に建立された記念碑には、以下の文章が深く刻まれています。

人跡未踏の大自然熊牛地区原野に 明治三十年一月三十日 子爵渋沢栄一ほか十名による約三千五百萬坪の貸付地予定存置を出願したるに始まり 渡辺勘三郎氏この計画を差配 農学士 町村金弥 山本信両氏をして土地地形調査開拓事業の有望なるを確かめ 同年(※翌年の誤り)二月十八日渋沢喜作氏を社長とする十勝開墾合資会社が設立されたのに始まる

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